銅像

銅像

日光にかかわった人の銅像


日光山の入り口、神橋付近には日光にかかわった人物の銅像が立っています。一人は徳川の3代の将軍たちにお仕えして家康公の霊廟として日光を推薦した「天海僧正」です。もう一人の銅像は戊辰戦争の時に日光を戦火から守った板垣退助の銅像です。

天海僧正(てんかいそうじょう)の銅像


徳川家康公に「日光」の地が最高のパワースポットであると推薦した「天海僧正」の銅像は神橋の反対側に日光山に向かう形で立っています。
徳川家康公に「日光」の地が最高のパワースポットであると推薦した「天海僧正」の銅像は神橋の反対側に日光山に向かう形で立っています。


天海僧正の銅像は神橋の反対側にあり、ちょうど日光東照宮などを仰ぎ見る位置にあります。天海僧正と日光のかかわりは非常に濃く、また、天海僧正の出生が不確かなので明智光秀と天海僧正を紐づける様々な伝説があります。
たとえば、日光にある「明智平」という地名は天海僧正がつけたものといわれています。また、日光東照宮には徳川家の葵の紋の他に明智光秀の桔梗紋が目立たないように配置されているそうです。
そのほかにもたくさんありますが、その真偽のほどはよくわかりませんが、徳川家康公に日光の地を徳川家康公の霊廟とするようにアドバイスしたのは確かなようです。日光は古くから山岳信仰の聖地として神々のパワーが宿っているうえに、江戸城との位置関係からも徳川家、そして江戸に繁栄をもたらす地形上の理由が整っていたようです。

天海僧正は日光山の第53代貫主(かんず)


天海僧正は天台宗輪王寺第53代貫主にもなっています。天海僧正が日光を家康の霊廟としたことで、3代将軍家光はおじいちゃんの為に心をこめて日光東照宮を立派なものとしました。

板垣退助の銅像


日光金谷ホテルに上がっていく道のふもとに立っています。
日光金谷ホテルに上がっていく道のふもとに立っています。


徳川家300年の歴史は1867年10月14日に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還したことで終わりを告げました。ですが、細かな争いは各地で続いていました。江戸城が無血開城したことで徳川家の聖地、日光で巻き返そうと大勢の幕府軍が詰めかけて不穏な空気だったそうです。日光東照宮という文化的に価値があるものを戦火で消失することを憂えた板垣退助は水面下で江戸城と同じように無血開城するように働きかけたそうです。1999年に世界遺産として登録できたのも板垣退助がいたからこそですね。