殉死の墓

殉死の墓

殉死の墓

殉死の墓 は徳川家康公の後を追った家臣や徳川家光公の後を追った家臣の墓です。江戸時代初期は使えている主君が死ぬと一緒に主だった家臣は後を追いました。ですが、そうすると、先代の主だった家臣がなくなってしまい政務に支障が出るので、4代将軍家綱は殉死を禁止しました。

殉死の墓 についてー殉死とは

殉死というは今だと少し理解しにくいですが、主君の死を追って家臣が自らの命を絶つという事です。本人の希望で殉死する場合はほとんどですが、中には無理やり殉死させられるケースもあったようです。
殉死は古くは古墳時代からあったようですが、特に武家社会において多く例が見られます。殉死者の数が一番多いのは、「伊達政宗」の15人です。

殉死の墓 についてー殉死しなかった人

家光の側近の中でも「松平信綱」は殉死をしないで4代将軍「徳川家綱」を支えました。当時、町民の間でも殉死しない信綱を非難したそうです。
「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」
「伊豆まめ」というのは松平信綱ことです。信綱は頭の切れる人で「知恵伊豆」というようなあだ名があったそうです。
町民ですが、そのような非難をしたので、きっと同じ武士の間ではもっと言われたことでしょう。それに関して信綱は「先代に御恩を頂いているものが全員死んでしまったら、いったい誰が徳川家をさせるのか?」と反論しているそうです。確かに、これが正論です。
そのような事があったので、4代将軍家綱の時代に武家諸法度に「殉死の禁止」が明記されました。

殉死の墓 についてー殉死した人

徳川家光公がなくなって殉死た人は11にいます。 殉死の墓 にお墓があるのが5人です。

4代将軍綱吉の時代からは「殉死」は禁止になりましたが、それまでは主君にの死とともに死ぬのが当たり前だったそうです。
4代将軍綱吉の時代からは「殉死」は禁止になりましたが、それまでは主君にの死とともに死ぬのが当たり前だったそうです。
    殉死の墓 の5人

  • 堀田正盛
  • 阿部重次
  • 内田正信
  • 三枝守恵
  • 奥山安重

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