日光の歴史

日光の歴史

日光の歴史

日光の歴史 を学ぶことは日本の宗教の歴史を学ぶようなものです。
日光の歴史 はだいたい、大きく3つのくくりに分かれます。
まずは、766年に勝道上人が日光に来てから、日光は山岳信仰の聖地として栄え、修験者僧が大勢、日光におしかけました。そんな時代が平安時代から、鎌倉時代と続き、戦国時代にも続いていました。日光の歴史 の中の第1幕です。

日光の歴史 第2幕は天海僧正によって、徳川家康公が自らの霊廟と定めてから、江戸幕府の繁栄と共に栄えた時代です。

そして、日光の歴史 第3幕は明治政府によって「神仏分離令」が発令され、それまでの「神仏習合」で神様も仏様も一緒に祀られていましたが、神様の領域と仏様の領域をきっちり分けることになりました。日光山の中に神社も寺院も一緒にある日光では「神仏分離」は至難の業でした。

日光の歴史 第1幕 修験者僧の聖地として

勝道上人

日光開山の祖「勝道上人」

日光の歴史 は勝道上人が766年に大谷川のそばに四本龍寺を建立したのが始まりです。それから782年に男体山の登頂に成功し、奥宮を建立し、そのご、男体山に登れない人の為に中禅寺湖畔に二荒山神社を建設しました。
日光の歴史 は神の宿る聖域として徐々に発展していきました。
高い山に神が宿り、自然災害なども神のなせる業とし、その山を信仰の対象としてきました。 日光の歴史 には

父なる男体山があり、男体山のご神体は大己貴命(おおなむちのみこと)であり、「千手観音」です。
母なる女峰山は御神体は田心姫命(たごりひめのみこと)であり、「阿弥陀如来」です。
そして、二人の子供の太郎山のご神体は味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、「馬頭観音」です。

このように、神道と仏教の考え方がミックスしていたのは「神仏習合」です。よく、「神も仏もないのか」とか、「神仏にお祈りする」などという表現が自然に生まれたのは日本は神道と仏教が一緒になって育ってきたからです。
このようにして日光も神社の境内にお寺があるのが当たり前でした。日光の山々はとても、パワーのある聖域として多くの修験者や山伏が修行し栄えていました。

日光の歴史 第2幕 徳川家康公の霊廟として

鋳抜門

家康公の霊廟の前の門

日光の歴史 は徳川家康公が霊廟として日光に東照宮を建立し、3代将軍家光公も自らの霊廟を日光に定めたことから、山岳信仰の聖地として修験者僧で賑わっている場所から、建築史上類まれな建造物で埋め尽くされ、今でも日本の観光地として日本の内部から、そして1999年に世界遺産に登録されたことから全世界の人々が日光に見学に来るような歴史的観光のテーマパークへとかわりました。
それは、ひとえに徳川3代(家康・秀忠・家光)に仕えた天海僧正のおかげだと言われています。
徳川家康公は遺言で、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は、日本の平和の守り神となる」と命じたそうです。
そして、その小さなお堂を、あのように絢爛豪華な社殿に作り替えたのは3代将軍家光です。家光公はあの有名な「春日の局」に育てられ、それが原因かどうがわかりませんが、「春日の局」と家光の生母「おごう」との間の確執から世継ぎの地位が危うくなり、「春日の局」が家康に直訴して、家康がそれを受け入れて、家光の世継ぎとしての地位が確立したので、家光公は祖父である家康にとても感謝するとともに、家康公を心酔していたということです。
そんな、家光公の「おじいちゃん大好き」精神があのような絢爛豪華な建物に現れたのだとも言われています。
実際、遺言で「死んだ後も、東照大権現にお仕えする」といって、東照宮のそばに自分の霊廟、「大猷院殿」を建立したそうだ。
「大猷院殿」は行ってみるとわかりますが、ミニチュア版東照宮のような感じです。
ですが、東照宮は神社で大猷院はお寺です。
日光の歴史 第2幕は「神仏習合」の時代と言えるでしょう。

日光の歴史 第3幕 神仏分離をへて世界遺産へ

日光は1999年に世界遺産に登録されました。

日光は1999年に世界遺産に登録されました。

このように神仏習合の形態で明治まで来ましたが、1868年に「神仏分離令」という大事件がおこりました。
1868年とは明治元年です。
明治政府は「王政復古」実現のために、神仏がごちゃまぜになっている今までの宗教観を正して、神様と仏様をきっちり、分ける必要がありました。
そこで、今まで神社の境内の中に立っていた仏教的建物はすべて神社の敷地から出され、神社とお寺は明確な線引きがされました。
平成の現代に生きる私たちにとって、初詣は神社に行き、お彼岸やお盆になると、お寺に行って先祖のお墓のお掃除をし、結婚式は神前で行い、お宮参り、七五三も神社に行きながら、最後はお寺でお葬式をあげたりしていたので、これもかなり、ごちゃまぜかなっと思っていましたが、明治政府の「神仏分離令」というのは神社・仏閣というハード側の分離だったようですね。
ですが、奈良自体から神様と仏様が混在してきた日光のお寺や神社にとっては分離するというのは大変な作業でした。日光だけでなく、多くの仏像がその時に破壊されてしまったようです。もったいない事です。
日光の歴史 の中でも最も辛い時代だったのではないでしょうか。
二荒山神社、東照宮、輪王寺とわかられて、三仏堂、相輪塔、鐘楼、本地堂、五重塔、護摩堂、経蔵などを輪王寺側に移転するように命じられましたが、財政的にもこれらの建造物全てを移転をするのは莫大な資金が必要なことと、輪王寺の敷地として定められた範囲が狭すぎて、すべての建物を移転するのが物理的に困難なので、明治政府に直訴して三仏堂と相輪塔を移転するだけで済んだそうです。
明治になり、諸外国の人々が日本に仕事で訪れるようになると、だんだんと、その気候風土が避暑地に向いていることがわかり、中禅寺湖畔は一時期外国の別荘地としてにぎわっていました。
関東で最も古い石造りの教会が残存するのも日光です。
その教会は今でも活動していて、礼拝もあれば、結婚式も挙げることができます。ヨーロッパの教会のような雰囲気の中で結婚式を挙げて、金谷ホテルで披露宴なんて素敵ですよね。
中禅寺湖畔には英国大使館、イタリア大使館の別荘が残っていて、現在では栃木県の所有となり、イタリア大使館は一般公開されていますし、英国大使館も現在調査中で、必要な修繕等が終了すれば一般公開される予定です。
1999年には日光の社寺は「世界遺産」に登録されました。
今までも観光客でにぎわっていましたが、日光の歴史 はこれからもますます観光地として発展してことでしょう。

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