落合源七の碑

落合源七の碑

神仏習合から神仏分離へ

明治政府は1868年4月5日、日本の宗教は「神道」だとして、今までのような神仏習合を新た「神道と仏教」、「神様と仏様」、「神社とお寺」を明確に区分けすることにしました。これが、いわゆる、「神仏分離令」です。
江戸時代までは神仏習合だったので、神社の境内に仏教的要素のものがあり、その反対もありました。
たとえば、

  1. 東照宮で護摩焚きが行われていました。
  2. 滝尾神社の楼門には、「仁王像」が設置されていました。
  3. 安産祈願で有名な「産の宮」は輪王寺の管轄です。

このように、神様も仏様も一緒にいらっしゃるというのが江戸時代までの神仏習合です。ですから、一緒になっているものを分離させるのはとっても大変です。適切なたとえかどうかわかりませんが、離婚も神仏分離と同じように大変な作業です。それまで、一つのお財布だったものを、二つに分離させなければならないのですから…。ですから円満に離婚できる例は少なく、多かれ少なかれ、人に頼んだり、しまいには朝廷や裁判になったりします。
日光の「神仏分離」もそれと同じです。それまで、同じ敷地で仲良くなってきたものを、ある日を境に、神様はこっち、仏様はあっちと分けなればならないのですから。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

また、明治政府が神道国教化の方針を打ち出したことにより、仏教がしいたげられ、全国各地で多くの仏教関係の建物、貴重な文化財が壊されてしまいた。
日光でも、例外ではありません。「寂光の滝」がある「寂光寺」は江戸時代まではとてもさかえていたお寺です。(地獄の王様、閻魔大王にあったといわれている覚源上人の話は「日本昔話」に乗っているほどです。)ですが、これも明治になって「若子神社」と姿を変えました。最近では、あまり参拝する人もなくさびれた神社となってしまっています。

明治天皇に直訴した落合源七と巴快寛

落合源七・巴快寛顕彰碑が立っている日光総合会館の入り口。

落合源七・巴快寛顕彰碑が立っている日光総合会館の入り口。

落合源七・巴快寛顕彰碑が立っている日光総合会館の入り口。

神仏分離と廃仏毀釈によって、日光の貴重な文化財がどんどん失われていくことを侵犯した日光の人々は、落合源七と巴快寛が代表になって、明治天皇に直訴して日光の神社・寺院を守ったそうです。そこでそれを記念して 落合源七の碑 が建てられていました。

日光総合会館玄関にあります。

日光市営駐車場があります。輪王寺や東照宮にも近いので、いつも混んでいる駐車場が目印です。

日光市営駐車場があります。輪王寺や東照宮にも近いので、いつも混んでいる駐車場が目印です。

落合源七・巴快寛顕彰碑は日光総合会館、玄関にあります。神橋の交差点を左に曲がって、両側に大きなパーキングがあるところなので、すぐにわかります。

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